美術展と小説をススめる音楽家

古いもの好きの現代人

「私を離さないで」(『Never Let Me Go』)

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命あるもの皆すべて、

死ぬために生きているようなものだと私は思っている。

 

そしてこの本には

臓器提供のために生きる人間たちの時間が描かれていた。

 

 「私を離さないで」原題『Never Let Me Go』カズオ・イシグロ著 土屋政雄

 

しかも、提供する側とされる側が同じ空間にいるという、ガラスケースのない臓器保管室のような空間。歪で恐ろしいはずなのに、この本の中では至極当然のこととして進んでいく。

勿論、提供者たちは死から逃れようと行動に移したりはする。しかしこの淡々とした空気は、どこかそれを当たり前とした、依存を通り越した通常という錯覚に陥る。

 恐ろしいのは提供者だけではない。ヘールシャムという施設だ。そしてそのヘールシャムを葬り去った事実。提供者にも人格があるということの証明を消し去る人間のエゴがみえるだろう。

 誰かのために犠牲になる命がある。その命を尊重するか、見て見ぬふりをするか。

 身近な問題がここに記されているのだ。

 

 

 

個人的な感想など

 

 一番感じたことは翻訳の重要さ。言語の違い、言語の再変換によって受け取り方がこうもすれ違うのかと実感ができた。

この世界観の雰囲気を深く味わいたいのなら、原文を読むことをお勧めしたい。もしくは映画を見ることをお勧めする。映画の方は作者自身も制作総指揮をとっているので、ニュアンスの受け取りはこちらの方がわかりやすい。

 遠回しに言わないならば、これはなんと昭和臭い文章なんだということだ。否定をしすぎるのは心が痛むが、ともかく私はこの訳し方は好まなかった。もはや頭の中で英語に戻して読み進めていた。

 物語の方に焦点にあてる。

 キャシー、トミー、ルースの提供者3人がそれぞれ自分自身という個性を離さないで最期を迎えたことが、このストーリーでは当然のことなのだろうが私には大変喜ばしく感じた。「個性という唯一無二を手放さないで」私はこの本の題名をそう捉えているからだ。

 設定こそ悲劇的だが、衝撃をぶつけられるような部分はない。しっとり、しとしと、イギリスの雨のように真実が分かってくる。それがとても自然に恐怖を与えてくる。

 ポシブルという存在がいるのが前提というのも、スゴイし、異様だ。自分の複製原が提供される側にいるということに、どうして大いに取り乱さないのか。なぜ自分の存在理由を大声で嘆き抗議をしないのか。その、しない、という一種の慣れというか、諦めの境地に至っているのがとても悲しかった。命の重さが違うという決定的事実をここに感じた。

 364ページ目(ハヤカワepi文庫)のセックスが切ない。終わりが見えた時に、もがくために始まりのセックスをする。もちろん命が宿ることはないのに。愛の証明だけのセックス。

 「わたしを離さないで」この言葉の中の、わたし、とはなんなのだろうか。それを考えながら読み進めていった。私の見解としては、己、を表しているように思った。己を捨てた自分が多い今の時代に、この再認識はとても重要だろう。これだけではなく、「提供者(という都合のいい存在がいるという事実)を離さないで」「(他人への依存として)私を離さないで」「(自分への依存として)私を離さないで」と、何種類も考えることができた。迎え入れるばかりが良いとは言えないが、離別しすぎるのもよくないだろう。なにより、忘れてはいけないことを忘れるのは、最もよくないことだろう。

 ヘールシャムの閉鎖は現代社会の闇を投影しているように思えた。海に投げたのが錨ではなく浮き餌だったようなものだ。餌は誰にも食われなくなったら腐って海の底に沈んでその存在を消される。美味しい餌でも環境と捕食者が変わればただの生ゴミになる。

 この本は、これからの社会を担う若者、特に思春期の辺りで読んでほしいと思った。そんな思いもきっと私のエゴなので大声では言わないでおく。

 すべてを知ることが幸福になるわけではない。役割を与えること、与えられることの天秤の傾き。尊重とは何か。与えられ使命を全うするのは誰のためなのか。自分のなかの己は何を思い、何をしたく、何ができるのか。そんなことを考えさせられる作品だった。