「老人と海」アーネスト・ヘミングウェイ
あらすじ
老人と海と、魚と少年。
「かれは年をとっていた。(中略)この男に関するかぎり、なにもかも古かった。ただ眼だけがちがう。それは海とおなじ色をたたえ、不屈な生気をみなぎらせていた」
序盤の本文から引用をさせていただいた。
この小説は、タイトルと序盤にある通り、老人が主人公となっている。
主人公、サンチャゴは生粋の漁師であった。しかし87日も不漁が続いていた。
それでも彼はめげることなく小舟に乗って一人で海へ出る。
しかし、残りわずかな餌が、想像を絶するほど巨大なカジキマグロを引っかけた。
奮闘する老いた漁師。
カジキマグロと老人は海の上で四日間を共にした末、老人が勝利した。
しかし海は老人に試練を与え続けていく……。
アメリカの作家、アーネスト・ヘミングウェイによる短編小説であり、ノーベル文学賞受賞に寄与した作品である。
世界的ベストセラーとされているが、日本人読者からは賛否両論が顕著にみられる作品でもある。
今回はその傾向を紐解きながら、個人的な見解と、それでもオススメする理由を書いていく。
個人的な見解
これぞ、老いた男 。
さて、以下はまずツイッターで述べてしまったことだが、改めてこちらにも載せる。
『深い舞台と役者だけど、要である葛藤は一人の人間的・個人的。そのギャップの共存が胸を締め付けました。 勇ましさすら切なかった。 これぞ老いた男、というキャラクターでした。とにかく切ない……』
読了。
— 一之木 歩 (@Ichinoki_Ayumu) 2021年8月2日
深い舞台と役者だけど、要である葛藤は一人の人間的・個人的。そのギャップの共存が胸を締め付けました。
勇ましさすら切なかった。
これぞ老いた男、というキャラクターでした。とにかく切ない……。#読了#読書垢さんと繋がりたい pic.twitter.com/KJMeismofc
こちらに書く前にこの呟きのリプに語り出してしまい、そこですでに自己解決してしまったのだが……。
改めて整理しながら述べる。
まず、自分の感想の呟きをしたあと、他の人の感想を眺めてみた。
すると、奮い立つ感情、を得た人が多くみられた。
私はこの小説を読んで最も感じたのは「切ない」という感情だ。
人それぞれの感性の違いが興味深かった。
なるほど、老いようとも奮闘する様に魅せられたということだろうか。
私の感じたことは、こうだった。
『話の序盤、老人と少年(青年)の会話で既に老いの虚無感が漂い、3日間の海上でも肉体や言動に老いが染み出ている。
自分を鼓舞する様にも、老人独特の老いが見える。港に帰ると老体が顕著に表れるし、全体を通した「老い」という枷と、諦めずに戦う男らしさが切なさを感じさせた』
私の場合だと、
— 一之木 歩 (@Ichinoki_Ayumu) 2021年8月2日
話の序盤、老人と少年(青年)の会話で既に老いの虚無感が漂い、3日間の海上でも肉体や言動に老いが染み出ている。
自分を鼓舞する様にも、老人独特の老いが見える。港に帰ると老体が顕著に表れるし、全体を通した「老い」という枷と、諦めずに戦う男らしさが切なさを感じさせた。
老いた男が奮闘する様に、魅せられたというよりは同情をかけたのだ。
さらに私はこう述べた。
『「カッコいい」という感想は私は得なかったな。「頑張るなぁ」とぼんやり思いながら、同情をした。
これは私のなかの、戦う男、への感情が基盤になっているからだと思う』
「カッコいい」という感想は私は得なかったな。「頑張るなぁ」とぼんやり思いながら、同情をした。
— 一之木 歩 (@Ichinoki_Ayumu) 2021年8月2日
これは私のなかの、戦う男、への感情が基盤になっているからだと思う。これがどういう感情なのか、最近のSNSでは思うままに発信しにくいので控えておきます😌
「カッコいい」という感想が、思いのほかレビューのなかに多く見られたのだ。
たしかに、「カッコいい」とも見て取れる描写だった。
「ハードボイルド」という感想もしばし見かけたし、納得もできる。
しかしこの小説のオチを読んでみると、これは 本当に「カッコいい」「ハードボイルド」という表現が的確だろうか。
否定はしないが、この表現には疑問を持った。
また、「内容が薄い」「名作と言われているのにこんなものか」などといった、いわゆる「ツマラナイ」という感想も多く見えた。
これに関しては、福田恆存訳の版のもののあとがき『「老人と海」の背景』を読んでいただければと思う。
簡潔に説明すれば、
・この作品はアメリカ文学であるという前提
・ミドル・ジェネレイション(失われた世代)の作品であるということ
・男性的な作品である
ということだ。
小説本文のように「老い」という枷ではないが、
この作品自体にも枷があるモノなのだ。
それでも私はオススメする
作品と読者。その需要と供給が合うかどうか
この作品の深さは、読者にかかっていると思った。
いや、この作品だけにとどまらず、小説や芸術などといったものは大抵そうだろうが。
この作品は老いた男とカジキマグロの4日間の奮闘がメインになっている。
この描写から直接得られることは少ないだろう。
例えるならば、絵本のようなものだ。
書き手は直接の表現をなるだけ避け、読者の想像力を広げさせる。
なにを想うも自由。
描写に魅せられるか、主人公から学ぶか、憧れるか、呆れるか。
それらは読者自身にかかっている。
(もちろんこれが一概に言えるわけではないという理解もした上での例だ)
前述でも取り扱った、「内容が薄い」「名作と言われているのにこんなものか」といった感想は、これに当てはめずに読んだのではないだろうかと予想をした。
いや、たしかに私自身も、「老人と海というテーマなのに、暗喩の手法ではないのか」
と面食らいもした。一瞬だが、内容が薄いとも思った。
しかし、最後の最後まで何かの暗喩ではないかと期待したが、作者はそれが狙いではないと私は結論付けた。
素のまま、で読むのが一番狙い通りなのではと思った。
考えてみてほしい。
生粋の漁師とはいえもう若くはない体で、
87日間も不漁が続いたのに、
「今日は自信がある」と言って海に出ていく。
人間の不屈の精神が垣間見れるではないだろうか。
そしてそれは全ての現代人が果たして持ち合わせている精神だろうか?
作品の供給と、読者の需要が合致したとき、この小説はとても いきる 物語になるのではないだろうか。
~・~・~
コロナやオリンピックで賑わっているが、
私はステイホームしながら読書をする日々。
暑さも厳しくなっておりますし、
皆さまもお身体に気を付けてお過ごしください。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
以下、本とか展示とか仕事の呟きをしているツイッター。
「超速読力」齋藤孝
「超速読力」は早く読むだけではない
現代に合わせた速読の利用と活用
道具を用いて分かりやすく
1枚の資料を15秒で読む訓練
読むスピードを上げるには
さらに高度な超速読力
まとめ
「私を離さないで」(『Never Let Me Go』)
命あるもの皆すべて、
死ぬために生きているようなものだと私は思っている。
そしてこの本には
臓器提供のために生きる人間たちの時間が描かれていた。
「私を離さないで」原題『Never Let Me Go』カズオ・イシグロ著 土屋政雄訳
しかも、提供する側とされる側が同じ空間にいるという、ガラスケースのない臓器保管室のような空間。歪で恐ろしいはずなのに、この本の中では至極当然のこととして進んでいく。
勿論、提供者たちは死から逃れようと行動に移したりはする。しかしこの淡々とした空気は、どこかそれを当たり前とした、依存を通り越した通常という錯覚に陥る。
恐ろしいのは提供者だけではない。ヘールシャムという施設だ。そしてそのヘールシャムを葬り去った事実。提供者にも人格があるということの証明を消し去る人間のエゴがみえるだろう。
誰かのために犠牲になる命がある。その命を尊重するか、見て見ぬふりをするか。
身近な問題がここに記されているのだ。
個人的な感想など
一番感じたことは翻訳の重要さ。言語の違い、言語の再変換によって受け取り方がこうもすれ違うのかと実感ができた。
この世界観の雰囲気を深く味わいたいのなら、原文を読むことをお勧めしたい。もしくは映画を見ることをお勧めする。映画の方は作者自身も制作総指揮をとっているので、ニュアンスの受け取りはこちらの方がわかりやすい。
遠回しに言わないならば、これはなんと昭和臭い文章なんだということだ。否定をしすぎるのは心が痛むが、ともかく私はこの訳し方は好まなかった。もはや頭の中で英語に戻して読み進めていた。
物語の方に焦点にあてる。
キャシー、トミー、ルースの提供者3人がそれぞれ自分自身という個性を離さないで最期を迎えたことが、このストーリーでは当然のことなのだろうが私には大変喜ばしく感じた。「個性という唯一無二を手放さないで」私はこの本の題名をそう捉えているからだ。
設定こそ悲劇的だが、衝撃をぶつけられるような部分はない。しっとり、しとしと、イギリスの雨のように真実が分かってくる。それがとても自然に恐怖を与えてくる。
ポシブルという存在がいるのが前提というのも、スゴイし、異様だ。自分の複製原が提供される側にいるということに、どうして大いに取り乱さないのか。なぜ自分の存在理由を大声で嘆き抗議をしないのか。その、しない、という一種の慣れというか、諦めの境地に至っているのがとても悲しかった。命の重さが違うという決定的事実をここに感じた。
364ページ目(ハヤカワepi文庫)のセックスが切ない。終わりが見えた時に、もがくために始まりのセックスをする。もちろん命が宿ることはないのに。愛の証明だけのセックス。
「わたしを離さないで」この言葉の中の、わたし、とはなんなのだろうか。それを考えながら読み進めていった。私の見解としては、己、を表しているように思った。己を捨てた自分が多い今の時代に、この再認識はとても重要だろう。これだけではなく、「提供者(という都合のいい存在がいるという事実)を離さないで」「(他人への依存として)私を離さないで」「(自分への依存として)私を離さないで」と、何種類も考えることができた。迎え入れるばかりが良いとは言えないが、離別しすぎるのもよくないだろう。なにより、忘れてはいけないことを忘れるのは、最もよくないことだろう。
ヘールシャムの閉鎖は現代社会の闇を投影しているように思えた。海に投げたのが錨ではなく浮き餌だったようなものだ。餌は誰にも食われなくなったら腐って海の底に沈んでその存在を消される。美味しい餌でも環境と捕食者が変わればただの生ゴミになる。
この本は、これからの社会を担う若者、特に思春期の辺りで読んでほしいと思った。そんな思いもきっと私のエゴなので大声では言わないでおく。
すべてを知ることが幸福になるわけではない。役割を与えること、与えられることの天秤の傾き。尊重とは何か。与えられ使命を全うするのは誰のためなのか。自分のなかの己は何を思い、何をしたく、何ができるのか。そんなことを考えさせられる作品だった。
特別展「桃山 天下人の100年」の記録
東京国立博物館の平成館にて、
2020年10月6日~11月24日に開催された「桃山 天下人の100年」
公式サイト:特別展「桃山―天下人の100年」:東京国立博物館
(この記事は2020年10月に展示へ行き下書きをして、
2021年3月にこちらに投稿しています)
前期・後期と2回観に行きましたが、
個人的には後期の方が充実した時間が過ごせました。
詳しい感想などは後程に述べるとして、まずは基本情報を。
桃山時代は、織田信長と豊臣秀吉が政権を握っていた時代。
うつけものと、派手好き。
そんな二人が天下統治した時代は、美術的にもとても華やかな時代だといわれています。
とはいえ、「詫び寂び」の千利休も生きていた時代なので、一概にすべてが華やかだったとは言えませんが……。
この展示では、そんな桃山時代への変革、昇華、そして次の時代へと続く、歴史の1ページを覗く展示でした。
桃山美術を7つの章に。
Ⅰ 桃山の精髄―天下人の造形
Ⅱ 変革期の100年―室町から江戸へ
Ⅲ 桃山前夜―戦国の美
Ⅳ 茶の湯の大成―利休から織部へ
Ⅴ 桃山の成熟―豪壮から瀟洒へ
Ⅵ 武将の装い―刀剣と甲冑
Ⅶ 太平の世へ―再編される権力の美
第5章の副題にある「瀟洒」。
「しょうしゃ」と読むそうです。
意味は「すっきりとあか抜けてしているさま。俗っぽくなくしゃれてるさま」
前期を見に行った時にも目を引かれたものももちろんありましたが、
狩野派の代表作は後期に重点的に展示されたので、感動の度合い的にはやはり後期の方が多かったです。
個人的なお気に入り
数えてみたら12作品がお気に入りとして二重丸の印がつけられていました。
ひとまずはズラリと並べてみよう。
(番号は出品目録のナンバー。
重要文化財は「重文」と省略。)
13「消息 五さ宛」 豊臣秀吉
23 重文 「花鳥図襖」 狩野永徳
42「唐物 茄子茶入 北野茄子」
93「書状」 古田織部
94 重文 「油滴天目」
112「織部黒沓茶碗 銘 小舟」
125 重文 「南蛮人渡来図屏風」
126「南蛮人渡来図屏風」
134「唐獅子図屏風」 狩野永徳
137 国宝 「松林図屏風」 長谷川等伯
185「田舎絵巻」 烏丸光広筆
188「菊花図屏風」 書:伊達政宗 絵:伝狩野左京
全231もの作品の中でも気にいった作品がこれらでした。
上記には書きませんでしたが、狩野派では正信、永徳、探幽に惹かれました。
前期に展示された狩野派の山楽や山雪の襖絵にも魅力を感じてはいましたが、
後期で正信の厳かな濃淡、永徳の力強い筆、探幽の空間のセンスを目の当たりにしたら
京狩野とも呼ばれる山楽、山雪はあっというまに二の次になってしまいました。
やはり派閥を作るほどの「最初の力」を持つ人のパワーには圧倒されます。
狩野永徳の作品は、もちろん洛中洛外図屏風のような細画も、人物の表情や動きに個性が出ていて好きですが、やはり大きな作品がピカイチで輝いていました。
この特別展の広告にもなっている「唐獅子図屏風」。配置としては端に置かれていたが、そのオーラは会場をのしのしと散策しわんばかりの生き生きとした獅子でした。
せっかくなので、上に挙げたお気に入りリストにコメントを加えていきます。
(メモのままなので口調が変わっています)
13「消息 五さ宛」 豊臣秀吉
消息とは平たく言えば手紙のこと。
これは豊臣秀吉が北政所の侍女「五さ」に宛てた手紙なのだが、文字の美醜の判断はされど文字の解読ができない私は、隣に並んだ徳川家康が「ちよほ」に宛てた消息の字と見比べてマスクの中で唇を弧に結んだ。
作品横の解説のプレートにすら「豊臣秀吉の性格が表れた字(意訳)」と書かれていて、もう、まったくそれに同意してしまった。勿論のこと本人にあったわけではないので、想像の中の豊臣秀吉が書きそうな字そのものだったのだ。
13 重文 「花鳥図襖」 狩野永徳
所蔵は京都 聚光院。まだ行ったことはないが、観光案内のパンフレットなどでよく目にする。
幹の逞しい曲がりはさることながら、枝の一本一本の生命力。そして可憐に咲く花。流れる川のまろやかなうねりが岩にぶつかる。その岩は大地にずっしりと沈み込んでいるように佇む。
多い情報が、しかしすっきりとまとまって存在感を一つにまとめている。
全体を見ても、枝の先、岩の影、幹のしなり、そういった繊細な部分の威力がしっかりと伝わってくる。
見ていて快感すら覚えた作品だった。
42「唐物 茄子茶入 北野茄子」
これは前期でも展示されていたが、とにかく、かわいい。
ころんとしたやや下膨れの丸み。滑らかな光沢。手のひらにのせればちょっと大きなハムスターくらいのサイズ。
天井からのライトがその可愛らしい茶入れを照らしているのが、小さな栄光を照らしているようで愛おしく思った。
93「書状」 古田織部
解説のプレートには「利休から学んだ字ではなく、自身のオリジナルの雰囲気を出した」(解説をメモしそびれたので、これも意訳だ)と書いてあり、私は10歩ほど歩いて利休の書を見た。整った、いかにも綺麗な字だった。また10歩、戻ると時代が少し進んだ実感がするような、やや崩れた織部の字。利休の字もお手本のような美しさがあるが、織部の方が個性のある字だった。
織部の字を賛美するというよりは、師の教えからオリジナリティを見出したその事実に惹かれた。
94 重文 「油滴天目」
これも茄子茶入と同じく、前期から展示されていたもの。
事前の勉強でこれの写真を見た時でさえ目を奪われたものだが、実際にそこに在るという現実になれば、それはもう目を見張るものだった。
宇宙が凝縮されたような、色見と星が散らされた椀。
身長157センチの私は背伸びをしてその一番深いところの宇宙を覗くのに必死だった、
112「織部黒沓茶碗 銘 小舟」
油滴天目が宇宙なら、これはブラックホールだろう。吸い込まれるような黒。
不確かな形で、はっきりとした色見とは裏腹に危うい存在感。
しかしその朧さと、ピンと張った緊張感が見事なバランスでそこに在った、
黒曜石のような輝きは、素材からなのか、なにか技術があるのか。
焼き物についてはこの展示の前に付け焼刃で覚えた知識のみなので、これからの勉強のやる気には十分すぎる材料だ。
125 重文 「南蛮人渡来図屏風」
126「南蛮人渡来図屏風」
後期に二つが揃ったこの「南蛮人渡来図屏風」。
とにかく印象に残ったのは、こちらを見て笑っている男の姿だ。
こういう顔、見たら呪われるという噂の画像になかったかなと考えてしまうような、不気味に正面を向いて笑う男が、しかも、各屏風(6曲)に何人も現れたのだ。すべて同じ顔で。
最初こそ不気味と思ったが、右から左へ、歩みを進めながら屏風を辿っていくと、またこちらを見てる、ああまたみてる、となんだか面白くもなってしまった。
134「唐獅子図屏風」 狩野永徳
これがサイズ的に大きなものだというのは思っていたが、その想像を超える迫力だった。
まず屏風自体がかなり大きい。
これを置ける屋敷というそれだけでも富と名誉を象徴できるだろう。
そしてメインの2頭の獅子。背中の模様が美しかった。
顔周りが一番線が太く、強く描かれ、そこから遠くなるほど線の幅は収まっていく。
基本的な技術だろうが、これがこの獅子の圧倒的なオーラを放つ要因の気がした。
137 国宝 「松林図屏風」 長谷川等伯
永徳が描く枝とはまた違った力強さがあった。
あくまでその力強さは限られた箇所の枝のみで、基本は霞がかった山の深いところにひっそりとしかし確りと根を張る松林だった。
現実的な幻想だった。ありそうで、ない。そんな空間だった。
185「田舎絵巻」 烏丸光広筆
この作品の気にいったところは、文字の筆さばきは勿論だが、あの人物画。
久しぶりにあんなにユルい描写を見た。
まるで小学生のノートに描かれていそうな落書きレベルの人物。それの周りを囲む流暢な書。
きっと本人はこんな風に国立の美術館で展示されるとは思いもしなかっただろう。
ちなみに私はこういったラクガキみたいなものが時を経て美術品になり重宝されるという例が大好きだ。時の流れを感じられる。
私達の知っている漫画や同人誌がこうしたところに並べられるのも、そう遠くない未来なのだろうなとこういうものを見るたびに毎回思う。
188「菊花図屏風」 書:伊達政宗 絵:伝狩野左京
この作品の気にいったところは絵よりも、伊達政宗の書だ。
予習段階では伊達政宗が関与した作品があることは知っていたのだが、後期を見に行った日はすっかり忘れていて、この作品を目の当たりにして改めて衝撃を受けた。
光に照らされた字。それらは全て似ていて異なる。
一つ一つの書によって書き方を分けていた。そういう伊達なことを、この屏風絵でもやったのだ。
私は想像してみた。
この屏風がどんなふうに描かれたかは知らないが、もし、仮に、絵が先に描かれ痕から字を書いたとしたら。
あの伊達政宗がこの絵を正面から眺め、どこに散らそうか考えその片目を動かしたのだろう。
独眼竜と同じ位置に立っているともいえる経験ができたわけだ。
思いがけず基調で不思議な体験ができた。
……書自体の感想に触れていなかった。
いや、勿論それは素晴らしい書だった。
字の良しあしが分かるほど書を嗜んでいるわけではないが、それがとてもいいものだとは感じられた。
それこそ、豊臣秀吉の字とはまったく違った。
どちらかと言えば吉田織部のような雰囲気だった。
お手本通りに描くのではなく、オリジナルを出した字。
それは性格をも体現しているように思うのだ。生きる証明がこの字には感じられた。
ともかく、私はこの伊達政宗の字を見た時、心の中で誰にかは分からないが電話をかけた。
「ちょっと、なんか、伊達政宗の書が」と特に意味もないけれど、この感情をあの静かな場では抑えられなかったことは確かだ。
ちょっと変わった内部事情?
かなりの充実した展示でしたが、いくつか不思議な点がありました。
まずはグッズ展開について。
今回の展示はなかなかに面白いグッズ展開だったのだけれど、まずポストカードが少ないことに「アレ」と異変を感じました。
グッズコーナーを一周してみると、こだわりのラインナップ。
クリアファイルも縦のものと横のもの2種類があり、ミニチュアの屏風、アイフォンケースと、ここまでは想定内でしたが、
イラストマスク、マスクケースと世情に通じたものや、ランダムアクリルキーホルダー、ガチャ木札(松林図屏風)、ザビエ湯などのネタに走ったものも多く目につきました。
ネタに走るなら宣伝もSNSを中心に大々的にやっているのかと思うが、そうでもない。
しかし駅に大判の広告を貼ったりと、ふとしたところへの宣伝はしている。
急遽決まった展示なのかもしれないが、雑誌 芸術新潮にも取り上げられていなかった……。
そして展示の方法について。
ガラスケースのことと、角度についても「おや?」と感じました。
今回の展示は屏風や襖絵が多いから、ガラスケースのつなぎ目の調整が難しそうだとは思ったが、それにしても目についた。
しかも細画ならまだ100歩譲って妥協できるが、引きで見た時が一番映えるような屏風絵の真ん中や、微妙に右側だったりにケースの繋ぎ目の縦線が入っていたのです。
他の展示ではあまり気になったことがないから、おそらくこの展示がそういったレアケースなのかもしれないのかと。
まあ、それは仕方がないことだと理解しても、刀の展示方法についても疑問が浮かんだので、どうやらこの展示は内部のなにかがどこか普段とは違うのではと勘ぐってしまいました。
その刀の展示というのは、角度と高さのことです。
刀を見るときはまず姿から、とはいうものの、やはり魅力を十分に感じたいのならば刃文や地鉄という刀剣の醍醐味を見ることでしょう。
しかし、見えない。
角度が上向きだったのです。
前期でこの違和感を感じ、私はツイッターでこのことを呟きました。
反応したのはフォロワーのみでしたが、こういう企画展などは大抵エライ人たちのエゴサが行われていると聞いたことがあるので、
そのエゴサに引っかかるように単語も調整して呟きました。
その功が成したか、意見箱にでも似たようなことが集まったのか、後期では見やすい角度に変わっていたように感じます。
(同じ靴を履いていったので、ヒールの高さは関係ないです)
豪語しておいて、実際何もいじっていないのだと判明したらそれまでですが、
とはいえ、その刀剣の展示の角度はトーハクにしては珍しくあまり配慮されていないもので、違和感を感じたのは事実です。
とまあ、角度については改善されたように感じましたが、高さは変わっていないように思いました。
身長157センチの私ですが、今回の展示はやや高めに設定されているように感じました。
桃山時代の展示となると、客層は男の人が多いと踏んだのかもしれないと予想はしましたが、これは如何に……。
展示物を照らすライトも今回はすこしいつもと違うような気がしました。
たしかに、紙製のものと、陶器のもの、材質の違うものを混同しての展示だったからかもしれませんが、天井から吊るされたものが多かったのが珍しく感じました。
2つほど、これはどこを照らしているんだろうと思うくらいに、ただ床を照らしているライトがあったのも未だに疑問です。なにか意図があったのか、ミスなのか、何なのか……。
このようにいくつかの疑問点は残りましたが、展示自体はとてもいいものだったので内部を推察するのは野暮ということで目をつむっておこうと思います。
観客動員数も心配になる世情でしたが、何はともあれ無事に閉幕。
このコロナ禍でもこのように展示を開催してくれるだけでも有難いものです。
次は何の特別展がくるか、今から楽しみです。
コンスタブル展と英国の風
3月にしては暑かった或る日、
三菱一号館美術館で2021年2月20日から5月30日まで開催している
「テート美術館所蔵 コンスタブル展」に行ってきました。
コロナ禍のなか、イギリスから遥々やってきた絵とグッズたち。
タイトルにもあるように、私は紅茶を記念に買って帰りました。
それと、実は初めて足を運んだ三菱一号館美術館。
アリス症候群の実体験ができてしまう建築で、それもまた楽しめたひとときの内です。
開催の概要や展示の感想、グッズについて書いていきたいと思います。
開催と会場について
開催会場:三菱一号館美術館
東京駅直結の行き方もあり、
有楽町駅、日比谷駅からも行けます。
特設サイト↓
テート美術館所蔵 コンスタブル展|三菱一号館美術館(東京・丸の内)
チケット価格
大人1,900円 高校・大学生1,000円 小・中学生無料
当日券と日時指定券の2パターンで発売されています。
学割のチケットは当日券のみなので注意。
ちなみに、平日13時頃に会場に着いた学生の私。
問題なく買えました。
検温とアルコール消毒:勿論完備。
ロッカー:複数の場所に在りました。
音声ガイド:なし
写真撮影:最後の順路の展示品《虹が立つハムステッド・ヒース》のみ写真撮影可能
混雑具合:平日に行きましたが、観るのに少し並んで待つくらいには人の数がありました。
フロア:エレベーターで上向し3階からスタート。途中2回トイレ・ベンチ休憩ができる順路です
再入場:不可
全5章でジョン・コンスタブルと触れ合う
まずは各章を軽くご紹介。
第1章「イースト・バーゴルドのコンスタブル家」
コンスタブルの生まれの地、イースト・バーゴルドにまつわる作品からこの展示は始まります。
第2章「自然にもとづく絵画制作」
麦畑や小道、父親の仕事場の外の風景など、身近な風景画を描き始めます。
第3章「ロイヤル・アカデミーでの成功」
家庭のためにロイヤル・アカデミーで栄光を捉えようと励むコンスタブル。
准会員になることができ、展示用の大型絵画から家庭用小型絵画を描きます。
第4章「ブライトンとソールズベリー」
リゾート地のブライトンと、大聖堂の建つソールズベリー。
コンスタブルの心情的にも対立した地での絵が見れます。
第5章「後期のピクチャレスクな風景画と没後の名声」
ピクチャレスクとは「絵の主題としてふさわしい」実際の風景のこと。風景画の最骨頂がここで見れます。
お気に入りと感想
今回の展示では7つの作品がお気に入りになりました。
No.7「教会の入り口、イースト・バーゴルド」
左下に座る3人の人物。老人と青年と少女。
人間の若さと老いを教会の前に描いています。
こういう表現の仕方が私はとても好きです。
No.18「デダムの谷」
この絵画を前にした時、まるでそこに立っているかのような感覚を味わえました。
絵画鑑賞緒において、旅行の疑似体験をするのが好きな私は、
コンスタブルの通学路に立ち、眼前に広がる谷を見つめ、
彼の母校に思いを馳せていました。
No.21「モルヴァーン・ホール、ウォリックシャー」
大型絵画なのですが、彼はこれを1日で完成させました。
とてもそうは思えない精密さと、誇張のない自然の魅力を併せ持つように感じます。
No.46「ハムステッドの木立」
木立の影と、太陽の光がとても対極的で、
でもそれは自然のなかであり得ることだという
奇跡の両立を改めて実感し、その美しさに心を打たれます。
No.47「雲の習作」
今回の展示のウリのひとつでもあるこの作品。
画面には雲だけが描かれています。
他の風景画で描かれるような雲とはまた一味違って、
私はこれを天国への途中に漂う雲のように感じました。
No.53「ハーナムの尾根、ソールズベリー」
コンスタブルの絵は「空気」の描写が最大の魅力と言われています。
私は「空気」というよりは「風」を感じました。
この作品はまさにそれを感じて、草木の香りを運ぶイギリスの田舎の空気を鼻と肌に感じた気がしました。
No.59 -12「ストゥーア川の水門」
No.59の作品は全部で21作品あり、これらはコンスタブルが原画を作り、デヴィット・ルーカスがそれを版画にしました。
他者の手が加わることにより、彼らしさが損なわれてしまうのですが(これについてはコンスタブルも文句を言っていた)
この「ストゥーア川の水門」はとても気に入りました。
この絵は私の理想の空間のようで、まるで前世の記憶が蘇って故郷に涙するように視界が滲みました。
No.55「ウォータールー橋の開通式」と
No.56「ヘレヴーツ・リュイスから出航するユトレヒトシティ64号」が、
ロイヤル・アカデミー展でのコンスタブルVSターナーの並びです。
油彩で色濃く描いたコンスタブルに対抗して、
同じく油彩とはいえ光射し込む潮風を幻想的に描いたターナーは
最後の仕上げの日にわざと赤色を付け足しました。
この一連のエピソードについては、会場でも原本とともに紹介されていますので
実際に足を運んで、2つの絵画が並んだその状況を体感してみるのがお勧めです。
(先に知りたい方は本展公式特設サイトをご覧いただくか、
「コンスタブル ターナー 銃」と調べてみるといいでしょう)
展示の順路を終え、グッズのブースに行くと
これらの絵のモチーフの地の写真が飾られています。
写真の技術が普及した今だからこそ、
その写真と風景画を見比べてみることに意味と、
風景画の醍醐味を再確認できると私は思います。
イギリスを推したグッズ
紅茶好きの私ですが、油断をしていました。
英国出身の画家のグッズブースに、紅茶が置かれることは容易い予想だったはずなのに……。
とりあえず約3000円と茶葉を引き換えました。
Tetlyの方は向こうのスーパーで売っているような一般的なもので、
DARVILLES OF WINDSORは英国王室御用達のメーカーです。
この紅茶については別の記事にて、解説と感想を書きたいと思います。
グッズの人気としては、
マグカップ(『チェーン桟橋、ブライトン』を原寸でトリミングし、
3種類のカップにそれぞれ違う箇所の空を写している)
が一番売れているそうで、入荷待ちになっているらしい。
まとめ
当たり前ではありますが、
やっぱり生で絵を見ると
写真とはまた違う自然の躍動感を筆使い・色使いで体験できて、新鮮さを味わえます。
とはいえ、私は海を渡ったことがないので
風を感じたとしてもそれは日本の風しか知らないわけで……。
ですが、本物を知っているからこそ感じることもあり
本物を知らないからこそ感じることもあるわけで
どっちが良いとは一概に言えないのも、また然りかと思います。
このコロナ禍、海外旅行も行けないですし
この展示でイギリスの空気を感じるのもいいかもしれません。
日本では35年ぶりのコンスタブルの大回顧展を是非楽しんでみてはいかがでしょう。
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初めてのブログ ー始まりの勢いー
時刻は21時を過ぎていた。
ブログは元々やるつもりではいた。
だが、
アフェリエイトだとかアドセンスだとか、そういうオトナのやりかたを考慮して開設をするとなると、慎重派が過ぎる私はなかなかに時間を食ってしまった。
しかし結局は勢いが一番なのだ。
雨が運んできた低気圧と、人体が起こす面倒な月経前症候群と、仕事のストレスから、
気付いたらブログ開設を始めていた。
……気づいたら、とは言ったが事前にツイッターで呟いてはいた。
けど、ライターの方でもブログ開設するかぁとプランを練ってます
— 一之木 歩 (@Ichinoki_Ayumu) 2021年3月18日
(一之木 歩 (@Ichinoki_Ayumu) | Twitter)
ユーザーID やらドメインやら、色々調べて時間が経ってしまったが、
開設自体は何緒確認画面も出ないままあっさりと完了。
無料という単語に弱い金欠学生の私です。
ひとまず無料で始めることにしました。
さあ、記念すべき初めてのブログトップ画面。
……このタイトルフォント、良いじゃないか。
フォントマニアではないので名称は分かりませんが、
この自然に洗練されたデザイン、嫌いじゃないです。
ごちゃごちゃさせたくないので、
しばらくはこのデザインでやっていこうと思います。
このブログの存在意義とは
ブログをやっていくにあたって、
これは何を意味するコンテンツなのかを明記することは重要だと思う。
私は、自分で観てきたもの、読んだもの、経験したこと、
そういう自分という歴史の一部をここに公開する。
そう、だからこのブログは、
昨今のインターネットの大きな漁網の如く、
有益な情報を率先して発信するようなものではない。
あくまで、一人の人間が、日記を晒しているようなもの。
もちろん、誰かの役に立ちたいという思いは持っている。
だから、私が得たものが誰かの役に立ちはしないだろうかという
模索も兼ねたのがこのブログだ。
なんて断言の口調で言ったが、まだ始まったばかり。
少年漫画の打ち切りの最後のコマのように
筆者の次回作にご期待ください
と述べて、ひとまずは締めさせていただきます。